その日は秋のさなかの、穏やかな日差しの日だった。隣ではピアノの音がする。
千秋はスコアのチェックをしていて、無意識のうちにもその音は耳に入ってくる。
最近のだめは自立するようになった。ピアノに対して、正面から向き合い始めた。
千秋はそのことを素直に喜んだ。こいつは変わろうとしている。しかも自分から!でも、内心さびしいのも事実であって。
・・・・・・・さびしい?なにが?
千秋は眉間にしわを寄せた。
なめらかなピアノの優しい音はこちらの心中など知らず。
のだめが自由奔放にいて、楽しそうにピアノを弾いていること。それがいつもあることが安心だと?それこそ束縛になってしまう。のだめの可能性を奪う。
ふぅと息を吐いて、それこそ思考も一緒に吐き捨てようとした。今はまだ認めたくない「もの」の気配を背中のあたりがさわさわと察知している。
千秋はスコアのなかから湧き上がる音楽の方に集中しようとした。
低音の刻むリズム、弦の音の波が寄せてはかえす。トロンボーンとホルンは軽快に、トランペットがそれに応えて。
バーン!!
不協和音が大きく響き、千秋ははっと顔をあげた。ピアノの鍵盤に何かが当たった音だ。何か大きいもの――たとえば人のような。
すう、と血の気が引いていくのがわかった。ホタルのだめが走馬灯のように頭の中を駆け巡る。息が詰まってしまった。
――のだめ
あわてて立ち上がりドアを開け放しすぐ隣のドアへ――
「のだめ!?」
ふざけんじゃねぇどれだけこっちが寿命縮めたと思ってんだよあほのだめありえねえだろ普通に音楽院生のピアノがゴミで雪崩れるなんてありえねえ
口から出るままの暴言を吐くと、小さく、ごめんなさいと正座して千秋の前に座るのだめが言った。
ピアノの周りには散乱したダンボールの中身がぶちまかれている。
さっきの音はこの音。
心底からの深い深いため息が出て、心配して損した、と呟く。
「どこの音楽院生がっ!ごみの雪崩れでピアノが弾けなくなるんだ?」
「ゴミじゃありまセンこれはのだめの大事―」
「ゴミも同然だ!」
萎縮したのだめがとても小さい。下向き加減の伏せた目。まつげが影を落としている。
「いっぺん死んでみるか?」
「先輩顔が怖いデス・・・」
ひくひくと顔を痙攣させてのだめが言う。
千秋ははあ、とため息をついた。ああなんだかとても疲れた。いろいろと。
ずきずきと痛む頭をおさえながら、
「お前この部屋片付けない限りはうちに入れさせないから」
「ふぉ!?」
「晩メシもあるはずないよな」
「ふぉぉ!?」
先輩それだけは~!!と泣きつくのだめをあしらって千秋は部屋を出た。ドアを閉めると、ドタバタという音がし始めて、千秋は自分の部屋に戻る。
ソファにどっかとすわってスコアを手に取るも。
うう、と千秋はうめき声を出した。本当に何もなくてよかった、と安心している自分がいた。
・・・なにかあったらどうしよう、と本気で心配したのは事実。
そしてそれが冷めて今、こいつに何もなくてよかった、と大いなる安堵があったのも事実。
だってきっと、もしものことがあったら俺は。
その感情に千秋は少し驚く。違うだろ俺・・・今までは怒りしか覚えなかったのに。
「ああもう!」
スコアで顔を覆ってしまえば外界は帳の向こうのよう。喧騒も膜で覆われる。
やはり予感はしていたけれど。
ちくしょーと毒づいて、責めて逃げてきた隣のことを少し、想う。
ちくちくと心に刺さるはなんの感情か、認めたくなくて、時に冷たい態度でいることを千秋はわかっていた。
きっと、この想いをごまかすために、こうやっていつまでもじゃれてあしらっているしかないんだろうと。
いっそ絶望的に千秋は思った。